歴史

三軒茶屋は江戸期に太子堂村と呼ばれていましたが、当時は神奈川県丹沢の大山のある阿夫利神社へ雨乞いに行く大山詣が流行し、多くの人の通行がありました。

大山道の本道(旧大山道(本道)は今の世田谷通り、新大山道(近道)は今の玉川通り(R246))の分岐点に信楽(後の石橋屋、石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋が現在の玉川通りと世田谷通りの三つ又の所にあり、その道中の休み処の目標に「三軒茶屋」と呼ばれだしたのが始まりです。

明治以降、シャボン屋、立飲みのできる酒屋、駄菓子屋、魚屋など、いろいろな店が増え、明治40年には、玉川電車も開通して、しだいに盛り場としての体裁を整えていきました。

現在は、角屋が明治に閉店、田中屋は火災で消失。石橋楼は「茶寮イシバシ」と名を変え、1階は洋食喫茶、2階は洋食宴会場でした。しかし、昭和20年4月、建物強制疎開令により閉店し残念ながら今その姿を見る事はできません。火災で消失されたと言われる「田中屋」は「田中陶器店」として当時とほぼ同じ場所で営業しています。

昭和25年に仲店商店街が建設され、続いて東京で最も早い時期にアーケード街が構築されます。平成9年4月には、キャロットタワー(平成8年11月完成)の中に、パブリックシアターの大小二つの劇場がオープン。毎年秋には三茶de大道芸などのイベントも開催するなど、芸術や文化を創造する「アートタウン」として、三軒茶屋は発展を続けています。

◇写真上部左/相州通、二子通 (現玉川通り、R246)
◇写真上部右/富士、世田谷道、登戸道 (現世田谷通り)
◇写真下部左.玉電開通時 明治四十年の石橋楼絵図
◇写真下部右.三軒茶屋交叉点角の總二階造石橋楼と三百六十坪の泉水庭園
& 屋根に鴟尾をのせた石橋楼と単線の玉川電気鉄道
※写真提供:石橋楼
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